始めよう海のある生活 くろしお 北浜マリンベース
海の遊びガイド 筆者のボートと海 <戻る>
筆者のボートと海のかかわりを紹介させて頂きます。
                ボートにとって理想的なロケーションのマイアミ内湾を航行中ののクルーズ船からの眺望
海沿いに生まれて
物心ついた頃から、軒下が海に出ていて雨の日でも濡れずに釣りをしていた記憶がある。父方のご先祖は船大工、母方は、漁師としいうことで、今あるのは、そんなDNAの影響かもしれないと思っている。 昭和40年代後半だったと思うが東京都小笠原で漁師見習を募集したことがあり本気で行ってみようと考えた。 外国へ行って働きたいとも思っていた。 ヨットのクルーザーも特段に進化した時代でもあったので、太平洋の島々を巡ることも目標だった。未知の海への憧れは、今も続いている。 空を飛んで行く海外は、たくさんあったけれどボートやヨットでの経験は、今だに無い。
船大工のDNA
父の祖父の代は、北洋の独航船を造って栄えたらしい。 私の祖父は船大工にならず父は30代後半ある日突然、1ヶ月程度の修行で伝馬船を造り始めたと聞いている。 私が高校生の頃FRP和船の時代が始まった。独学でFRP船を造り始めた父を高校卒業の単位が足りなくなるほど本気で働き手伝った結果が、今のFRP加工や木工加工に生かされていると感謝している。
初めてのオートバイ
高校一年の時、機械科で原動機の科目があり多少の基礎知識を得られた。 何でも分解するのが好きで、動かず放置してあったメグロのオートバイを高いとは思ったけれど一万円で譲ってもらい3Kmも押して帰った。これを分解整備しエンジンが始動した時の感動は、今も鮮明に覚えている。車体を磨きあげピカピカにしてナンバー無で夜の浜道を走りまわった。 このオートバイはその後まもなく友人の父がメグロの大ファンということで確か10万円近くで買ってくれた。 このころから船のエンジンに興味を持つようになり本業へと進んでいくことになった。
初めての船釣りとボート
4歳頃と思うが松島湾のカレイ釣りに釣れていかれた記憶がある。船酔いしたのはこの時が最初で最後と思う。大きなカレイがたくさん釣れたと記憶している。湾内には、今では考えられないほどたくさんの魚がいたと思う。モーターボートに乗ったのは18歳だった。松島で乗せてもらったそのボートは、YAMAHAのSTR20SCRだった。沿岸漁船が高速化し始めた頃だが20ノットを超えられない時期だった。そんな中30ノットオーバーのスピードは、驚異的な体験だった。エンジンにも感動した初体験であった。
初めての金華山
金華山は大変遠い場所だった。20代全般に勤務していたマリーナの先輩たちとの金華山曳き釣り釣行、大型のサバがたくさん釣れたことを覚えている。 陸が見える松島湾や塩釜沿岸が釣り船やボートの行動範囲だっとこの時期、ひたすら遠い海に憧れていた。 ボートの性能と航海計器が飛躍的に進化した今では考えられないことだが金華山沖へ行くことは相当の覚悟のようなものを感じていた。 今は気象海象の予測も可能で更にエンジン性能も良くなりレーダーもGPSも性能良く、電話や無線設備もあり金華山沖は、かなり身近なエリアになったと思う。
初めての遠出で沖泊まり
平成3年頃YAMAHAの漁船DY43に少し居住性を確保して漁船登録をした。航行区域は100海里、しかも日本全国どこへでも行ける。遠くへ行くことができる船を始めて手に入れた。 9月初旬金華山海域の回遊魚が最も濃くなる時期に日帰りを考えず出港した。しかしカツオの群れは見つからず走り続けた。塩釜を4時前に出て釜石沖70海里付近でカツオのなぶらを見つけたのは10時頃だった。カツオのナブラの中に突き出たカジキのビルが何を意味しているのか初めて見たのもこの時だった。
太平洋に沈む太陽を始めて見ることができた。海水で米をとぎ炊きあげ釣れたカツオでの晩飯のうまさは今も忘れられない。 陽が沈み西へ向うと濃霧となったが、やがて漁火の船団へ入り手釣りでイカ漁をした。明け方潮に流され大船渡綾里沖にいた。ついでに夜明けから深海釣りを始めてタラとメヌケやドンコを獲った。朝食には、イカそうめんが追加された。疲れ果て夕方前には塩釜に入り無事に航海を終えることができた。
ボート先進国をのぞいて
昭和から平成になった頃、YAMAHAの特約店になったことを契機に外国のボートショーやマリーナ研修に参加した。ヨーロッパやアメリカのマリン先進国を訪れ日本がいかに貧弱な環境であるかを実感した。当時の隻数比較は日本35万隻、アメリカ1500万隻比較にならない数字、日本は今も先進国の中でボート保有率は、最下位のままである。 海外の事情をのぞくまでは、日本の漁業は世界一のような意識を持っていた。働く環境、福利厚生、生産性、資源管理など様々な問題があり漁業先進国とは決して言えないことを始めて知ったのもこの頃だった。 マリン文化の健全な発展を目指し微力であっても職業を通じ努力し続けようと考えるようになった。
廻航と遠征で違う海
塩釜から一番遠いヤマハの工場は、天草にある。陸送できない船は廻航することになる。新艇の廻航は、最も緊張する気の抜けない仕事でありわずかな傷もつけられないないし万が一があってもならない。決して楽しい仕事ではない新艇の廻航にくらべて釣りやトローリングメインでの航海は何度でも行きたくなる。時間や費用を気にせず日本一周をしたいと考える人はたくさんいると思うけれど筆者は、5年後くらいには実現したいと考えている。筆者の経験、北海道網走 青森の日本海側の深浦 太平洋瀬戸内経由で天草、伊豆七島は神津島まで、行きたい日本の海はたくさんある。
金華山のカジキ初釣行
金華山エリアは、カジキが大量に回遊していることは知っていた。                        カツオ釣行でカジキのライズは、何度も見ていたけれど釣ってみようとは全く考えていなかった。      釣りをゲームとは考えてはいなかったので曳き釣りにヒットしてくるカジキにしかけを持っていかれていらだったりしていた。
平成4年からロットとリール他を準備し平成5年8月23日初めての釣行に出た。
平成5年は、冷夏でカジキの回遊も遅く水温も上がらず潮が金華山前に来たのはお盆過ぎだった。マカジキのヒットが7回ありフックアップしたのは2本だけでだった。この後、多くの方に体験してもらったがこの年の釣果は、マカ5本で終了した。最大魚は94Kgだったがこれが当時日本記録と気づいたのは解体が終わった後だった。平成6年からは、徐々にカジキにチャレンジするお客様が増えカジキ釣り大会を考えるようになり結果は出せなかったけれど下田の大会にノウハウを知るため初参加した。JGFAの前会長、大西さんがわざわざ塩釜を訪問して大会の精神などをご教授いただいた。変ありがたく嬉しく真剣に大会開催の準備をはじめ09年は、第13回目の開催となる。
子供と孫の時代の海とボート
画像は05年2月の南極、娘婿が南極へ行った。管庁船ではあったが娘も海に係わった。スエズ運河とパナマ運河も通過した。孫たちへは可能な限り海に係わる生活を体験させたいと考えている。ボートの利用環境を欧米並みに低コストで安全で社会に調和したものにしていくための活動は、続けていきたい。商売を次の世代へ引き継げる時期が来たら漁師になりたいと思う。沿岸釣り漁業で生計を立てられるかを試してみたいと考えている。自分で獲って自分で売る、沿岸漁業文化と食文化を継承していけるものかどうかが難しい環境にあるので大きなテーマと思う。塩釜港は観光の街の大事な要素を担っている。港の奥で地域の子供たちが、シーカヤックやディンギーで遊ぶ、そんな環境を創っていけたらと思う。
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